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子育ち論1

先日、ある保育園の園長先生との会話の中で、園長先生がこんなことを嘆いていた。

「「ミニトマトは誤嚥の危険があるから、細かく刻んで提供する。」「節分の豆まきの豆は誤嚥事故につながるから食べさせないようにしよう。」

とか世の中では言うけれど、私はそれがすべて正しいとは思わない・・・。」

なるほど。確かに共感できる部分も多い。

危険があるならその危険を取り除こう。リスクマネジメントしよう。という考え方ももっともなのだが、全部が全部それでいいのだろうか?

そこばっかりに目が向いてしまうと、本来子どもたちに経験させたい豊かな経験が、すべて引っかかってきてしまう。

例えば、私が勤務していた保育園では、年長さんになると毎朝ニワトリの飼育当番をする。

子どもたちがグループ活動として、日替わりで担当する。小屋の掃除、水・餌やり、餌にする野菜(給食材料の皮や余計な部分)のみじん切り。

もちろんみじん切りでは、包丁も使う。

包丁を使うということは、自分の指や手を傷つけてしまう危険がある。それならばやらせないほうがいいのか??

私はそうは思いません!!
道具の危険性をしっかりと伝え、正しい使い方を身に着けさせることの方がよっぽど重要だと考える。子どもたちは、繰り返していくなかで、「刃物は人にむけない、正しく使うと便利な道具だ。」と学習していく。こういったことを幼児期から経験していれば、将来刃物をつかって人を傷つけるなんてことは減るように思うのだ。みなさんはどう考えますか?

誤嚥の話とは形は違と思うが、話しの本質としては同じだと思う。

もちろん乳児期の、咀嚼力も嚥下力も未熟な時期にミニトマトや豆類をそのまま与えようとは思わないし、命にかかわる事故にもつながりかねないので、対処できることは対処すべきなのはわかっている。

ただ、全部に全部その考え方のフィルターをかけてしまうことに関しては、疑問なのである。

小さいときから色々な食材に触れ、歯固めをし、野菜スティックなどで咀嚼力をつける。

保育者は万が一に備えて、年齢に応じた背部殴打法や胸部突き上げ法を身に着ける。

そういったことにも、もっと目を向けていくべきなのではないだろうか?

「子どもが怖がるから‟なまはげ”はやらない。」「騒音の問題になるから、除夜の鐘はたたかない。」

こんな声も聞こえてくる近年。

日本の伝統や文化を伝え、守っていくことも、現代に生きる私たちの使命だと思うのだが・・・。

人間の営みのなかで生まれてきた文化を、簡単に否定することは、私たちの歩みを否定することなのか?それとも、それこそが新しい文化なのか?

保育も文化であると考えると、私たちはどういった選択をしていくべきなのだろう。。。

繰り返すが、リスクマネジメントを否定しているわけではない。

みなさんの意見をぜひコメント欄で聞かせてください。

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コメント: 3
  • #1

    タカアシ (木曜日, 15 4月 2021 22:10)

    リスクマネジメント…確かに必要な事ではありますよね。危ないからという理由で、その物自体を取り除いたり、蓋をするのは確かに、わかりやすいやり方なのかもしれません。でも、子どもたちが経験を積んでいく場を奪いたくない…
    保育の現場では、その思いを共有して、大人同士がその一つひとつの問題に向き合って、なんでやるのか、なんでやらないのかまで話し合って、どうしていくか決めていけるのが、職員のスキルアップも含めて大切なことなんですね。
    考えさせられます…

  • #2

    ブログ主 (金曜日, 16 4月 2021 00:14)

    タカアシさんありがとうございます�
    そうですね。
    難しいけど、とても大切なことですよね。
    我々大人が、子どもを真ん中にして
    真剣に考えていかないとですよね。

  • #3

    のりも (金曜日, 16 4月 2021 07:24)

    目に見える危険だけを排除していくと、子どもに本当に必要な経験や感覚までも排除されてしまう気がする。
    もちろん命に関わることや大怪我に繋がることは排除したり目を見張らなければいけない。
    でもそれがどんどん過剰になっていくと、子どもの「育ち」にリスクを背負わせることになりかねないんじゃないのかな。